ところで人生の耐用年数を60年とすると、寿命十五年の家なら一生に4回買えばいい勘定になる。だが、アメリカ流に4~5年で買い換えるとなると、ローンで、「一生の思いで買うマイホーム」という今のぼくらの生活感覚との辻褄(つじつま)があわぬ。ちかぢかマイカーなみにマイホームも安くなりますと企業。下取り制度もつくりますと商社は言うけれど、ぼくらのソロバンは合いそうにない。
今はとても信じられないマイホームの使い捨てだが、いずれ風習化するだろう。かつて、といってもわずか15年前、果たして何人の日本人が今日のような車の「使い捨て」を予測していただろうか。それがわずか15年の間に、風習化した。日本中のいたるところに今は車の墓場がある。神話の高千穂でも累々と車のむくろが深い山の谷を埋めつくしているのを見た。あと20年もしたら高千穂の谷々を、こんどは住まい捨てた廃乗住宅が谷を埋めつくすようになるのかもしれない。
アメリカの住み捨て住宅は今どうなっているのか。土地にゆとりがあるせいか、団地ごと住み捨ててよそに移って行くらしい。あとにスラムを残して。日本ではそれはかなうまい。土地のゆとりがないからだ。団地ごとに廃棄住宅の墓場をつくるべきだ。霊園より先に、団地に家の墓場を。
ウイスキーの空瓶をいまだかつて酒造メーカーは引取ってくれたことがない。壊れた洗濯機をメーカーが始末してくれなかったから、商品の家――用済みの建物をメーカーが始末してくれるだろうと考えるのは甘い。使用済みの建物は住み手が自分で始末せねばならぬ。メーカーはマイカーの後始末をしてくれなかった。マイホームも同じ。始末はぼくらがつけなければならないことにきっとなる。
建たぬ前からそんな予測の心配はするな。そうおっしゃりたいむきに、はっきり答えておく。デザインは「事前の計画」だから、事前に工業で量産される住宅の廃棄予測を立て、その対策を今考えておくのが、ぼくらの商売なのだと。予測もデザインだ。だがこの予測に基づく対策、工業家やぼくら工業デザイナーに任せっきりにしたのでは、怪しいことになる。環境・建築・工業など、あらゆる関係者たちの事前の考察・計画・行動が今ぜひ必要。過去20年の日本の過ちの一つは、社会の工業化を工業家だけの手にゆだねたこと。今まさに建築は工業化しようとしている。これからの建築、工業家に一任でいいのか。
工業化は製品の消耗品化を、必ず伴う。建築とて例外ではあり得ない。また、工業は製品をファッション商品化する偏向も併せもっている。量産態勢が整いすぎ、供給が需要を上まわるようになったとたん、住宅もまたファッション商品化しはじめるだろう。「ファッション住宅」――自動車のように、年々、新型のための新型が意匠を凝らして売り出され、「隣の車が小さく見えまーす」式の「隣の家がケチに見えます」といったコマーシャルを伴って、ファッション商品化した住宅が売り出されるだろう。
万年道具をオートメーションで量産することは、工業の自己矛盾だ。霊園つきの団地に一生涯住まわれたら住宅産業は成り立たない。アメリカ方式の団地ごとの住み捨てこそ住宅産業の願いなのだろうが、だが一体、住宅とはぼくら生活者にとって本質的に何なのか。小鳥は恋の季節になると一羽ずつめいめいの「縄張り」を主張して盛んにさえずる。春を歌って巣を作り、雛を育てる。巣は巣立ちの日までの、一時のためのもので二度とふたたび使われることはない。いわば小鳥の巣は住み捨てだ。人間にも縄張りがある。家だ。自分たちだけのマイホームだ。個性的に暮らし、個性を育てるために、人間はめいめいの縄張りを創ろうとする。
昔の日本人は、一生の借家住まいを、男一匹のやることではないと考えた。建売の家に住むことを、間に合わせの人生を送るのと同じだとして嫌って避けた。かつて家は、買うものではなくてめいめいに建てるものだった。個性的に、創作して住むものだった。人間の家は小鳥の巣と違い一生の道具だった。だが、現在の工業は、家をめいめいには作れない。一生の道具にも作れない。技術的には作れても、経済がそれを許さない。もしもユーザーの注文の個別の住宅を工業生産するとしたら、それはおそらく大工の建てる家の何倍ものハイコストになってしまうだろう。
ユーザーの、安いマイホームをという現実的なニーズと、家の作りは絶対にめいめいであるベきだという本質とを、2つながら充足させる手はないものか。
大工と工場とで、古い建築技術と新しい技術を合わせて双方のいい点をプラスして住宅を作る新手は考えられないものか。町の大工は工場の作れない個別の家を建てられる。一方、工場は大工の作れない設備を安価に供給できる。大工が、建具職などの職方と一緒にこれからもぼくらの町に、これまでのように住み続けてくれることを前提に、「”建売”率7割制限」の住宅という考えはどうだろう。
聞きなれぬはず、建売率なる言葉は、ぼくの造語。従来の建坪率、環境保全がねらいの敷地に対する建坪制限の建坪率を真似た造語だが、たとえ建売住宅といえどもめいめいで個別的であるべきだから画一的に作ってはならぬと規制し、未完成品で家を売りなさいという案である。70パーセントだけは工場生産してよろしい。残りの30パーセントは住み手と町の大工の勝手にさせなさいと言うわけ。いかがであろう、この案。住宅のイージーオーダー方式と言ってもいい。デパートで買うスラックスだってめいめいにすそあげをしてからはく。まして住宅、既成の、画一的な間取りの家に暮らしの方を合わせて人生を送るのは、愚の骨頂。本末転倒。暮らしにこそ住まいを合わせて作るべきだ。ぼくらの脚はスラックスに合わせての長さを変えられない。
建売率7割規制でもやらないと将来、工業生産のマイホームはマイカー並みに画一化するだろう。T社、N社の車の違いほどの、似たりよったりの量産住宅が、屋根瓦の色が違う程度の変わりばえのしない家々が、北は北海道から南は沖縄まで、風土差もなく建つ。としたらそれは間違いだ。
マイホームにマイルームなしという新イロハカルタの一句、面白い。やっと手に入れたわが家住んで見たら亭主の部屋もない狭さ。という皮肉だが、外観もお隣さんと一緒なら、中の暮らしもまた同じ、マイライフなしの貧しさだと、この諷刺、なかなかだ。ともあれマイホームを、マイカーとは違うように作りたい。たとえマイカーと同じメーカーが作るにせよ、違う発想で願いたい。
霊園のある団地のマイホームを、果たしてこれからの工業は創り出せるかどうか。今の工業にはまだそれが作れないと思う。
出典元・著作の紹介
『住―すまう 日本人のくらし』
玉川大学出版部 | 単行本 | 1977
書名が「すまい」ではなく「すまう」となっていることからわかるように、住宅ではなく、暮らし方の諸問題をあつかった本である。根底にあるメッセージは、同じシリーズの『木——しらき』と共通する。加えて秋岡芳夫の他の著書ではほとんど触れられていない「灯り」の話、流行色とは関係ない、日本人の肌になじむ色彩の話などがあり、インテリア選びや服飾品の色選びにも本書が役立ちそうだ。
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※掲載箇所:「住―すまう 日本人のくらし」 p119 5行目~p126)
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