「マイカーとマイハウス」

モノ・モノ創設者の秋岡芳夫は、暮らしや木工に関する多数の著作を残しています。本コーナーでは秋岡芳夫の本の中から、現代に通じる提言や言葉を掘り起こし、ウェブ上に公開しています。本稿では工業化社会における住宅問題について「霊園のある団地」や「建売率7割」など独自の提言を行っています。

文: 秋岡芳夫(工業デザイナー)

ごく近い将来、大企業が量産してくれることになっているぼくらのマイホームが、いまの「マイカーそっくり」になる予測話を書こうと、そう思い、鉛筆を持った途端、いつかアメリカの雑誌で見た一枚の風景写真を思い出した。

それは夕暮れの、一見原野のような空地に、200台近い大型の自動車が円陣を作って灯をともしている、初めて見るモービルハウスのある町の異様な風景だ。

「これでも、町か?」

たぶん貧しい黒人たちの、「やむをえない町」なのだろう。アメリカという国は貧しい奴がこんなふうにとことん貧しいんだ。気の毒にと、勝手な解釈でその時は見過ごしたが、たしか、そこに集まった車はみんな屋根が丸くて、日本の寝台列車にそっくりだったから、内部の間取りは、梯子でベッドによじのぼる1LDKタイプになっていたんだろう。その、富める国アメリカの貧しい一面のシンボルのような、モービルハウスのある夕景を、なぜ、今ぼくは思い起こしているのだろうか。

ぼくの職業はID。インダストリアル・デザイナー。ここ20数年、自動車、カメラ、洗濯機、プラスチック製品などの商品デザインを手掛けてきた。その20年間は、今にして思えば、ピタリ戦後の経済高度成長期と輸出伸長期に合致しているから、その間ぼくがデザインしたおよそ3000点あまりのモノが、企業の高度成長と国の輸出伸長、外貨獲得にいささかお役に立ったと思う。ぼくも大いにデザイン料を稼がせてもらったが、さて、ぼくのデザイン、どれくらい生活者側の暮らしに役立ったか? 不充分なデザインだったと思う。「万年道具」は1つもデザインしていない。耐用年数の一番長いものでも10年限りのもの。多くはテレビの8年、洗濯機の6年といった耐久消費財とは名ばかりの、世に言う「使い捨てのもの」ばかりだった。

クーラーや冷蔵庫の耐用年数は7年だが、これはあくまでも国の定めた目安の数字。実際に使用された年数は、ユネスコの数字で見る限り、基本寿命25年に設計された自転車が実際には平均2年、11年もつはずの自動車がわずか2.2年、アイロンは基本寿命どおり5年間使われたが(アメリカのマーケットデータ)これは想像以上にひどい使い捨てぶりだ。経済高度成長の裏面の、芳しくないデータだ。

かと思うと同じ工業製品を自転車75年、アイロン・洗濯機25年、自動車なら40年も実際に使ったのは、低開発の国々だという。

ところで、ここ数年、ぼくらIDの仕事に新しい銘柄が加わり始めた。従来の自動車、家庭電化商品に代わって、「FRPのバスルーム」、「セントラルヒーティング装置」、「サニタリーユニットなどの住宅用設備ユニットの開発」、「開けたてしない窓、閉めっぱなしのアルミサッシ・シリーズの研究開発」といった建築関係の部品、素材、設備、システムのデザインが新しく加わって来た。しかも、そのクライアントは、以前と同じ家電や自動車のメーカーなのである。あるいは大手プラスチック成型企業だったりなのである。「ポリバケツ成形じゃあ、これからの日本は食って行けない」と、樹脂メーカーにいる仲間は言うし、N家電メーカー所属の有能なデザイナーたちは、もうとっくに扇風機や洗濯機部門から住宅部門に配置替え済なのである。

どうやら工業は、住宅を、住宅という名の商品を、これからの儲かる量産品と見ているようである。車の次の車、マイカーの次にはマイホーム。「車のような住宅」がデザイナーのぼくには今、実感できる。だからこそ、忘れかけていた一枚のモービルハウスの写真を思い起こしているのだ。

それにしても今計画中の、工業が作ろうとしている住宅は、あまりにも自動車に似すぎている。

第一に、その寿命。予測だが、工業的に量産される住宅の基本寿命は10~15年と目下の計画では車並み。だが、車を2~3年で新型と買い換える習慣があるように、すでにアメリカでは4~5年に1回住宅を買い替えた先例がある。日本もいずれ住宅を数年で住み捨てる習慣の国になるだろう。住宅の寿命――耐用年数が車並みに必ずなる。ならぬとメーカーは成り立たぬ。

そうなるように、技術を開発する。女の靴下と電球を、ほどほどの寿命にする研究はすでに終わっている。100年もつ丈夫すぎるモーターの寿命を10年に縮める研究・技術開発をやった弱電メーカーのことと、誇らしげにその開発研究を進めていたエンジニアの顔をぼくは忘れていない。

それは10年あまり以前のことだった。当時、洗濯機についているタイマーは劣悪で、3年ほどで故障した。風呂場などで使用すると外装の鉄板が数年で錆びて朽ちたのに、モーターだけが壊れない。100年もつ。これは無駄だ。寿命十年に改良できないものか?  モーターが100年もつなら、タイマーと外箱も100年ものに改善しようというような発想は不経済につながるから、工業はそんな発想は決してしない。耐用年数十年の設備ユニットをビルトインした商品の住宅は、たぶんシェルターの寿命を短命な設備に合わせて縮める研究をするだろう。コンクリート構造部の寿命に合わせて設備ユニットの耐用年数を伸ばす技術開発は決してやるまい。

そして、一方に「新しいもの信仰」の人間が大勢いて、100年もつ住宅よりも、かなうことなら10年ごとに新型の家でと考えるだろうから、ますます量産住宅の耐用年数は短命化する。すでに短命だった高層分譲住宅の実例が現われ始めている。親しい仲間が住んでいた東京は渋谷の、ある高層分譲アパートがその一例だ。もはや設備が古ぼけてしまったと、まだ使えるのに16年目の一昨年、その高層アパートは取壊されて空調・冷暖房・エレベーターつきに建替えられた。

惜しまれつつ取壊されたライトの代表作帝国ホテルも、設備空間の老朽化・陳腐化が決定的な建替え理由だったように、これからの建築空間の諸装置は、内部から建物の命数を縮めて行くだろう。そしてマイホームはいずれマイカーと同じ短命の商品になるだろう。

では、そんな短命の「商品住宅」で、一体ぼくらはどんな暮らしをすることになるのか。象徴的に言うなら「霊園のない団地住まい」になるだろう。もし入居者が一生その団地に住みつくつもりなら、団地内に霊園があってあたり前だが、仮住まいのつもりでそこに入居し、また、どうせ仮住まい用なんだとたかをくくって計画するからか、団地には霊園がない。どんなちっぽけな村にも、墓所がある。墓所があって、しっかりしたコミュニティがあった。今の団地には、両方、ない。霊園がなくとも、コミュニティがなくとも、人間は死ぬ時が来れば死ぬ。

ついこの間、ぼくが借りている古い、といってもまだ12年ほどしか経っていないマンションで、葬礼があった。会葬のスペースがないので仕方なく、一同車置場の片隅で柩(ひつぎ)を見送って形ばかりの葬礼を済ませたが、死者にはひどく気の毒だった。柩がスムーズに部屋から出なかった。狭い階段、曲りくねった踊場。手なれた葬儀屋の「おみ足から先にどうぞ」の誘導でなんとか仏様は頭が下にならずに階段を下りられて、無事出棺がすんだものの、「こんなマンションじゃあ、うっかり死ねない」とだれかがつぶやいたとおりで、こんな、そこで人が死ぬ事を設計考慮してない高層住宅がいかに多いことか。お棺を持って乗込めるエレベーターを装置したマンションがあるだろうか。

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