子供のための大人たち

工業デザイナーの秋岡芳夫は、暮らしや木工に関する多数の著作を残しています。モノ・モノでは秋岡芳夫の本の中から、現代に通じる提言や言葉を掘り起こし、ウェブ上に公開しています。本稿では、終戦直後に「戦争のいまわしい想出」から抜け出すために、童画や玩具のデザインに熱中した青年時代を秋岡自身が述懐しています。

文: 秋岡芳夫(工業デザイナー)

秋岡芳夫・ロクロノガングノタメノイショー
創作こけし「ロクロノガングノタメノイショー」。秋岡芳夫が1943年に描いたスケッチを元に、ドンタク玩具社が2015年に立体復元した。

戦争が東京に残してくれたのは、うその様に澄み切った青空だけだった。そして終戦という折目が私に与えてくれたのは、その青く広い空に雲のように自由に夢を描いて見ることだった。理由もなく私は戦前からの職場にもどることを止め、なにはともあれその青い空に浮かんでみた。そして夢想した。初山滋のような絵かきになろう。オモチャをつくる人になろうと。

子供達に関係のある仕事に取組むことで、戦争のいまわしい想出からも抜け出せるような気もしたし、子供・童話・絵本・玩具などと言う言葉を口にすること、もうそれだけで充分平和で平等で自由で未来が明るいような気がしたのを覚えている。

その頃の或る日の新聞に新日本童画会発足の記事を見付けた(昭和21.7)。「民主主義的なこどものための美術を創造し、普及する。」―網領第一項、とある。初山滋、武井武雄、松山文雄など、私が幼かった頃愛読した「こどものくに」のさしえで親しみ深い名前が発起人の中に見える。

早速手紙をかき、これから童画の勉強を始めるのだが会に入れてもらえるだろうかと伺いを立てて見る。兎も角入会を許され、その後度々初山滋の人柄に接しているうち、私の、「子供のための大人たち」への夢が定着し始める。

新日本童画会で童画の勉強を始めたばかりの私は、収入を得るために進駐軍家族住宅のためのインデペンデントハウジング計画に家具デザイナーとして参画するのだが(昭和21・日給6円90銭であった。)、その仕事場、久我山の工芸指導所(現産工試)で、私は、又別の「子供のための大人たち」に出会うことになる。

その連中は、玩具統制組合の研究班という看板を掲げて、戦争中から引続いて玩具のデザインを研究していたグループで、戦中の統制経済下で限られた品種の玩具を限られた材料でどのようにしたらよくするかと腐心していた面々であった。班長の服部茂夫、旧班長の野口恒喜、戦後加わった斎藤公子などの仕事振りに、私は少しずつ引かれて行った。

進駐軍家具の仕事の合間に私はだんだんとこのグループの部屋に入りびたるようになり、ロクロの木製玩具のスケッチを始める。当時産工試の嘱託で素晴らしい木製玩具のスケッチを描く松川蒸二や少し後れて復員して来た所員の寺島祥五郎などもその頃のこの部屋の有力なメンバーだった。

当時(昭和・21)はまだ玩具は贅沢品として高い物品税がかけられるしきたりで、一定価格以上の玩具はいくらデザインしても決して販売できないのが実情だった。よいデザインの研究も良いが税金の撤廃運動もやろうじゃないかと、若い一途な気持が盛り上りかけた頃、この玩具統制組合の研究班は解散させられてしまった。

止むなく乗りかかった舟とばかりに玩具設計技術協会というのをつくる。そして展覧会を計画する。税金撤廃を叫ぶ。やたらにデザインをする。玩具問屋におしかける。メーカーに働きかける。玩統や産工試の手づるをフルに利用してあちらこちらを歩きまわる。

発足当時の協会のメンバーは、服部、松川、野口、寺島、斎藤、秋岡、それに紙塑をやっていた由良玲吉、魁(さきがけ)育児家具のデザイナー松本文郎も次いで加わる。やっと第1回展を三越で開く運びになる。狭い会場だが素晴らしい展覧会だった。すぐ隣りで玩具統制組合の優良玩具展とやらが開かれている。その玩具展の審査員、なにを間違えたかこちらの展示品を全部入賞作品にとり上げてしまう……こんなエピソードに勇気づけられ玩具設計技術協会は何回か展覧会を積み重ねながら、昭和28年まで続く。

途中から天野孝雄、知久篤がこの運動に加わった。この間松川蒸二は富士木工で次々と生地仕上げの木の動物をつくった。服部、野口は引車などの木製玩具を試作した。松本文郎は育児家具の楽しい作品を数多く市場に送り出した。斎藤公子は商品としての玩具を嫌い、デラックスな布帛(ふはく)の動物の縫いぐるみに狂った。由良は大人っぽい紙塑の人形に彼好みのフォルムと色彩を歌っていた。私は私で、ローコスト木製玩具を、子供の手に入る玩具をと志して、茅野の山奥にこもったりした。

茅野の澄んだ空気の中に蔵前の玩具問屋で、われわれに極めて協力的だった千葉虎男氏のささやかな木工場があった。ここは免税品の木工玩具をねらった工場なのだが、話を聞いて驚いた。玩具の材料はすべて裏山から切り取り東京に送られる雑木の薪束から選ばれるのである。

ミズキとか椿とか薪の中に偶然まざりこんだ玩具に使えそうな白い肌の薪を抜きだして安く買う。それをラッカーなどで彩色したのでは免税品が出来ないのですべて染料で染める。木ロウと一緒に染めた部品をカラ箱に入れてグルグル廻し、染料を落ちつかせる。又ここでは裏山の雑木の外に、小田原の箱根細工工場の屑材も俵づめで送られて来て使われていた。

私はここで何十点かのロクロ玩具のデザインをし何点かを試作したが、ついに商品にならなかった。その頃のこと、浅草の玩具問屋をたずね、「今一番うれるのはなにか」と聞いた答えが、「この本でしょうね」と見せられたのは8頁の絵本、表紙にオモチャと書いてある。中身は見開きベタ一面の玩具の絵。いくら物の不自由な時代とはいいながら、本物のオモチャの代りにこの1冊10円の本を吾子に買い与える親の気持ちがせつなく胸をえぐった。

こんな時代だったから、若いわれわれの考えていることなどとても具体化するはずがなかった。茅野から東京の焼跡にもどった私は、話があって、上野不忍池の埋立児童遊園地計画に手を出した。アメリカのコニーアイランドの写真一枚をたよりに懸命にプランを練り絵をかいたのだったが、これも又お流れ、今思えばこざかしい大人の無茶な計画だったようだ。(昭・23)。輸出工芸展にすべり台を出品したのもこの年。

一方、童画会の方は玩具と少し事情が違っていた。22年の第1回展を皮切りに毎年1回ずつ着々と展覧会も開き、会員も増え、商業ベースにも乗り、原稿料、印税の規約制定(昭・22)季刊機関誌の発刊(昭・23)などあり、会の委員若がえりの際私も初めて委員に推され(昭・24)、北田・富永・大作・岩崎らと新童画研究会を創り、新しい童画の傾向作風を世に問わんとしたりもした。

この年には由良玲吉の紙塑工芸展が銀座資生堂で開かれ、可成りの評判を呼び、ようやく若い世代の発言が、児童のための美術の世界でも認められ始めたかに見えた。

26・27年、私は葛飾の輸出ゴム玩具工場に玩具デザイナーとして嘱託の職を得る。毎週1回、空気でふくらせる動物のゴム玩具の設計図を山のようにかかえて工場に通う。そして月3,000円の定収を得る。そして約50種類のゴム動物玩具を海外に送り出す。

この頃になると、日本の産業界も少し自主的に物をつくることが出来るようになり、デザインなどと言う言葉が実感として感じられるようになる。27年の10月には日本インダストリアルデザイナー協会が生れる。

明けて28年私も河潤之介、金子至と一緒に工業デザインの会社をつくる。勝見勝が会社名の名づけ親になってくれる。勝見勝の意見で例の「子供のための大人たちのグループ」玩具設計技術協会に今一度活を入れようと言う話になる。名前をかえて、ロンム・プール・ランファンとする。

29年5月第1回展を伊勢丹で開く。メンバーは以前と全く同じ。天野のモビール、由良のビニールプール、ジャングルジム、ソフトブロックという積木、松本文郎の子供イス、斎藤公子の縫いぐるみギニョール、寺島祥五郎の育児セット、などなど、松川蒸二の作品が見られないのがチト淋しかった。

私は新しく同志と創ったKAKが忙しく出品作がつくれない。妙な飾り物でお茶を濁す。この頃からデザインブームとやらが始まり、皆忙しくなる。子供のための大人たち―ロンム・プール・ランファン―は何時の間にか大方、“大人のための大人たち”になって行く。

ロンムの第2回展も計画倒れになる。斎藤公子は子供達を求めて幼稚園の経営に熱中する。私も勝見氏と小学校の図工の教科書の編集を手伝ったり、たのまれて、学習雑誌にポツポツ工作記事を載せる程度になってしまう。松本文郎の魁育児家具のデザインも30年代になるとどういうわけか下火になってしまう。

昭和32年、この年はJ・D・C・O(日本デザイン協議会)が出来た年なのだが、デザイン界にグラフィックとIDや建築などが一つの方向に向って、何か綜合的な動きをしようと言うキザシが見え始めた年なのだが、児童美術の面でも同じ様な動きが見え始める。童画会の展覧会の出品が絵だけでなく、染色、写真を初めて公募したのもこの年である。

こうした動きは童画会の若い人達の主張によるもので、次の童画コマーシャルベース宣言(昭・34)公募品目に児童遊具、児童用室内用品、同パッケージ、プレイスカルプチャーなどに立体部門の新設(昭・35)などにつながって行くのである。

由良や私はこうした動きに大いに賛同し、成り行きを見まもって居たのであるが、ある理由から、日本童画会は37年に解散することになる。現在、童画会は戦前からのベテランメンバー、初山滋や武井武雄を中心に再編成され、昔ながらの童画らしい童画の世界を創り出している。又39年から別に児童出版美術連盟と言う職能団体も発足し、専ら童画家の地位向上をねらっている。

そんなわけで、二昔前、あの終戦の頃、よく澄んだ青い空に、オモチャや童画を夢見ていた若者たちの、澄んだ眼差しは、今、どこを探したらいいのだろうか私には見当もつかない。ロンム・プール・ランファンの集まりの話も、ここ数年絶えて聞かない。20年前の澄んでいた筈の私の眼も、今は濁り果て、スモッグの空を見上げながら、こんな想出を綴っている。「子供のための大人たち」という想出話を……

でも、現在私は、又新しい仲間、柴田和夫らにささえられて、子供たちのために、新しい仕事に取組み始めている。それはある雑誌の附録の体質改善をねらうデザインの仕事である。

従来、兎もすれば雑誌の附録物として軽視され、粗悪なものとして見放されたままであったフロクを、今一度叮嚀に企画し直し、設計し、デザインし、良質の材料を配し、独立した物としての生命をあたえる仕事。粗悪なフロクで傷つけられた子供たちの心に今一度物に対する信頼の心を呼びもどす仕事。

G.E.がアメリカで行っているという将来の自社のユーザーを育てるために、極めて良質の科学教育玩具を自ら開発しているのに似た地味だが有意義だと信ずる仕事を、澄んだ眼の若い仲間に励まされて進めはじめている。一応の成果をあげるのに5年か10年は少なくともかかるだろうと、そう想いながらこの仕事をつづけている。新しい「子供のための大人たち」と一緒に……

※秋岡芳夫が1943年にデザインした創作こけし、「ロクロノガングノタメノイショー」を「低座の椅子と暮らしの道具店」で販売しています。

出典:美術手帖4月号増刊(第251号)・P88~98・1965年4月15日発行
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