「椀・第二の目で買いたい」

モノ・モノ創設者の秋岡芳夫は、暮らしや木工に関する多数の著作を残しています。本コーナーでは秋岡芳夫の本の中から、現代に通じる提言や言葉を掘り起こし、ウェブ上に公開しています。本稿では身度尺(身体サイズにあわせて道具の寸法を決めること)の考え方をもとに、使いやすい椀のサイズについて考察がなされています。

お椀

数年前、料理研究家の山崎純子さんから韓国のお椀と箸と匙をもらったが、使いにくそうなのでしまいこんでまだ一度も使ったことが無い。箸も匙も、そして入子(いれこ)になっている二つの椀もステンレス製の金属食器だ。椀は大ぶりで、高台がついていないからひどく持ちづらい。韓国の人達は熱い料理をこんな器で食べているのだろうか。椀は手に持たないで膳に置き、匙でたべるのかもしれない。とにかくこの椀は持ちづらくて日本料理向きではないことはたしかだから、そのうち韓国料理を食べて見るとしよう。

ところで、フォークがかちんと歯にあたると背中がぞーっとして顔をしかめるかなけ嫌いの日本人がけっこう多い。ぼくらが金属食器の歴史を経験していないからなのだろう。ご飯味噌汁の椀は手にもってたべるが、むらちょこも手に持つのが正式なんだとはある料理学校の校長先生に聞いた話。むらちょこは刺身のたれを入れる小皿や猪口のことだが、むかしは刺身をたべるのにぐい呑みほどの小ぶりの猪口にむらさきを入れて、もりそばを食べるような手つきでたべたものらしい。そんな刺身皿と猪口の図が幕末の本、『守貞漫稿』に載っている。

片手に箸、そしてもう一方の手に器を持って食べる食事に馴れているせいか、さすがに日本人は器の持方がうまい。ふうふうふきながらでないと食べられないような茶碗むしの器を子供たちも上手に手にもってたべる。毎朝の汁椀で会得しているから、器の口と高台に指をかけて熱くないように持ってたべている。

日本人は子供のときから食器を持ちつけているから食器の手ざわりにことのほかうるさい。たぶん無意識だと思うが、食器売場で気に入った椀を見つけると「一寸(ちょっと)そのお椀見せて」と手にとって確かめて、たとえ見た目はよくとも、手がうんと言わなければ買おうとしない。ぼくらは食器の手ざわりにうるさい。

人間の指は「第二の目」だそうだが、日本人の手にはとりわけ食器にうるさい目玉がついているらしい。証拠になる話がある。めし茶碗汁椀の売場を見て歩いているだけの客は買わぬ客。「ちょっとそこのお椀見せて」と言う客は買う気のある客。手にした椀をじっくりなでまわしている客は買おうか買うまいかと迷っている客で、手でなでながら目をつぶったらその客は絶対買う客なんですよとは、ある和食器売場のベテランから聞いた話である。

たしかに椀に関しては、目よりも手の方がうるさい。加えて手には味覚もあるのかと思う。ひどく冷えこむ晩に甘酒の椀を手にしたとたん、うまさが胃袋にしみわたることがある。煎茶碗のぬくもりに茶のうまさをしみじみ味わうこともある。間違いなくぼくらの手には味覚がある。手にした料理を手の味覚で味わうのは日本人独得の美意識だ。手に食器を持つ伝統が培った味覚だ。

そうした美意識にささえられて、汁椀がことのほか「おいしい作り」に出来上っている。高台の隅々までおいしい作りになっている。高台の内側をまるく刳った椀がある。この手のつくりの椀は底を持った指先の感じがなんとも言えないと中年層以上に評判がいい。椀を持つのにいまの子供たちは高台を中指と薬指で挟むようにして持つ。高台のへりに指をかけて持つ子はあまり見かけないが、大人たちはかならず中指を一本高台の凹みに入れて持つから、指先のあたりがやわらかになるように高台の内側をまるく刳るのが親切な椀のつくりかたなのである。高台のまるい刳りは台所でも評判がいい。一番汚れやすいところが洗いやすいからだ。まるい刳りのほうが塗りやすいと産地の塗師も……。

高台の高さ。洗ってふせて置いた椀の高台が小さいと取りあげにくい。膳の上の椀は高台が低すぎると手にとりにくい。高台高は椀の底に指がすっと入るぐらいの12ミリほどがいいようだ。時代椀には20ミリを超える高い高台のものがある。さっと椀の底に手が届いて持ち下げるには具合がいいが、椀のふちにかけた指と底にかけた指が開きすぎて持ちづらい。高台の高さは女の指一本ぐらいがいいようだ。

評判のいい椀の高台幅を、持ちくらべながら測って見たら45ミリのものが多かった。45ミリと言えば大人が二本の指を無理なく開いたときの指先の開きの寸法だ。椀の高台幅は底にまわした指の無理のない開きに合わせて作ってあるようだ。高台の内側の凹みは浅目に、9ミリに刳ったものが使いやすい。高台のふちにかけた指の関節が痛くない。指の先が軽く高台の凹みの底にふれるていどの深さが9ミリだ。高台を高々と作ってある時代椀でも内刳りは浅くしてある。深さ9ミリ前後に抑えてある。

椀の大きさは、手をいっぱいひろげた半球と同じ。

椀の口径。ふだん使いの汁椀は径120ミリ、4寸どまりが使いやすい。4寸を1分でも超えると持ちにくくなる。ぼくらの手の握りの寸法に限界があるからだ。卓上にふせた椀に上から五本の指をかぶせるようにしたときにすべての指が卓にとどいたらその椀は「持てる椀」だ。そんな椀の口径はほぼ4寸で、高さは2寸ほどのはずだ。ふせた椀を鷲掴みにした指先が卓にとどかない椀は持ちづらい椀である。

手で球型をつくって見よう。左右十本の指先をお互いに軽く触れ合わせて丸くすると、男で径4寸、女で3寸8分ほどの球型になる。この球型が持てる椀の大きさの限界を示している。椀は上から鷲掴みにすることもある。横から持つこともある。伏せた椀を裏から持つこともある。膳の椀を斜上から持って手許に寄せることもある。

品よく持てる椀の口径は3寸8分。114ミリだ。横から持って取上げた椀はふつう上下持ちに持ちかえる。熱い椀はかならず口と高台に指をかけて持つが、上下に指をかけて持ちやすい椀の高さは2寸。60ミリどまり。高さ50ミリほどで低くて持ちやすい椀もあるが、姿がよくない。量が入らないせいか汁がさめやすい。

時代椀の中には椀の高さが90ミリのものもある。姿は立派だが使いづらい。女の指だと高台に指先がとどかない。男がこんな椀で食事をすると肘が横に張ってサムライの食事のような恰好になる。指を精一杯開いて椀を持つからだ。指を精一杯開いたり、ぐっと握りしめたりしたとき腕の筋はこわばる。そのこわばった腕で椀を口に運ぼうとすると勢い肘が横に張って、サムライの食事のようなさまになる。2寸、60ミリ前後が品よく椀を持てる椀高だ。椀高が径の半分で、椀を二つ、向き合わせて重ねるとまん丸になるような椀、手でつくる球型と同じ大きさになる椀をふだんの椀に使いたい。

椀の内側の形と外側の形とではかなりの違いがある。外の形は、縁は唇に、胴は掌(てのひら)に、高台まわりは指先に馴染よく作ってある。そして内側は、たべやすい別の形に作ってある。二本の指先の目で、縁から底へ椀の厚さを測って見ると厚みの変化があって内外の形にかなりの違いのあることが分かる。底の近くは意外と肉厚だ。使いやすい椀ほど底の肉が厚い。

京都に十二段家と言う民芸料亭がある。天ぷらの美味しい店だが出てくる椀がよろしくない。時代椀の合鹿椀の外形だけを樹脂でコピーしためし茶碗がいただけない。径約133、高さ90ミリほどの大椀で、ふわっと軽い。底の肉が薄いせいだろう。高台の刳りが深すぎて指が痛い。径が大きすぎて片手では持ちづらい。内側が井戸のように深くてたべにくい。熱い汁を盛ったら持てないだろう。椀は、内と外とで異なる二つの形が、縁を境にして一つのものになっていて、だから美しいのだが、そうした美しさがこの十二段家の模造椀には無い。

いい椀特有の、手の中でのバランスの良さー低い重心がこの椀には欠けている。いい椀にはほどほどの手応えがある。軽すぎもしないし重すぎる感じでもない見た目と同じ手応えがあるはずだが、この店の椀は見かけ倒しだ。ちなみにぼくらが持ち馴れている汁椀の目方は約100g。蜜柑1個ぐらいの目方。大ぶりの林檎の3分の1。

ともあれ日本の汁椀のつくりは胃袋の大きさよりも手の大きさに合わせて作ってある。手の好みに合わせて作ってあって、手に食器を持ってたべつづけて来た食の歴史の痕跡をすみずみにまで見ることが出来る。日本の椀は手の道具である。手と組んでおいしく食事をする道具なのである。

主食を、インドでは指で食べる。西欧では料理をフォークとスプーンで、手でパンを食べる。韓国では箸と匙で、そしてぼくらは箸と椀で食事をする。国による食習慣の違いと言ってしまえばそれまでだが、この、それぞれの国の違いを、いいことだと考えたい。椀を、日本だけのいいものだと思いたい。手のうちのものにしたい。

出典元・著作の紹介

暮しのリ・デザイン

暮しのリ・デザイン

玉川大学出版部 | 単行本 | 1980

これまで取り上げてきた道具や話題を生活という尺度で測り直すと、また別の物語や提案が出てくるのが秋岡芳夫の発想のすごさだ。「国鉄が捨てたD51型蒸気機関車(愛称:デゴイチ)を拾って、薪を焚いてロクロや帯鋸じゃんじゃん回して木工やって、過疎の地の村おこしやろう」という提案にはじまって、話題はエネルギー問題から包丁の柄のデザインまで縦横無尽に広がる。裏作工芸の発想もこのあたりからはじまった。
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