「男の椅子」と「女の椅子」の誕生モノ語り

秋岡芳夫がデザインした「あぐらのかける男の椅子」と、その原型となった「女の椅子(現・親子の椅子)」は、旭川工芸指導所(現・旭川市工芸センター)の協力によって製品化されました。工芸指導所の職員として当時、開発に関わった山田克己さんに、名作椅子誕生のストーリーを執筆していただきました。

文: 山田克己(旭川市工芸センター・元所長、アート&クラフト作家)

1975 年(昭和 50 年)代の家具業界と工芸指導所

1970年代にいち早く家具のデザインシンポジウムを開催した旭川市

19××年に女の椅子(現・親子の椅子)が商品化されてから40年以上が経った。男の椅子や女の椅子(現・親子の椅子)」は、長らく旭川市で生産されていたが、その職人も高齢で亡くなり、商品開発の経緯を知る者は、私を含めて数人になってしまった。当時の資料が散逸してしまう前に、インターネット上に記録を書き留めておこうと、今回筆を取らせていただいた。

本題に入る前に、工業デザイナーの秋岡芳夫氏が旭川へ通うようになる以前の旭川家具業界と工芸指導所の状況をまず述べておきたい。

旭川市の家具産業にとって、1975年(昭和50年)代は、“輝ける時代”だった。旭川市工芸指導所の調査によると、1975年(昭和50年)の、家具出荷額は140億円、道外移出(出荷)割合は55%だった。10年後の1985年(昭和60年)には、出荷額は318億円、道外移出割合は75%と飛躍的に成長した。また、1971年(昭和46年)以後に発生したドルショックと、変動相場制への移行に伴う円高による長期不況下にあっても、旭川家具は国際的な広い視野を持って発展し、家具の五大産地の大川市、静岡市に続く生産額を誇るまでに成長した。

1976年(昭和51年)2月には、旭川市ではじめて大規模なデザインシンポジウムが開催された。5時間におよぶシンポジウムに、旭川の市民約1,600人が参加。基調講演は、ファッションデザイナーの石津謙介氏、司会に日本インテリアデザイナー協会理事長の白石勝彦氏、パネラーとしてインテリアデザイナーの川上信二氏、工業デザイナーの秋岡芳夫氏、建築家の林雅子氏、北海道プロダクトデザイン協会会長の新庄晃氏といった豪華メンバーで開催された。シンポジウム翌日の研究懇話会には家具業界から約80名が参加し、膝を交えてデザインのレベル向上について話し合われた。

このように旭川の家具業界は、デザインの向上に努力し、デザイン先進地であったことから、デザインシンポジウム開催地だけでなく、日本インテリアデザイナー協会支部の設置候補地としても白羽の矢が立ったのであったが、残念ながらその後デザイナー協会の支部が実際に旭川に置かれることはなかった。

余談だが、1976年(昭和51年)7月には、旭川の家具メーカー9社がサンフランシスコのファニチャーショーに出品した。このことは旭川家具が「安かろう悪かろう」の時代を一新し、品質の向上に努め、世界に通用する高級家具を目指すという意思の表明であった。1970年代の旭川家具は、「地元の良質な木材、手加工・機械加工を駆使した加工技術の更なる高度化」。特に「国際市場に通用するデザイン」の向上を図り、行政もそれらを支援しながら、本格的な国産家具の輸出を目指す…そんな勢いのある時代だった。

デザイナーを招聘し、商品開発の支援を行う活動も

さて、本題に入ろう。旭川市工芸指導所では、設立当初から中央で活躍するデザイナーを招聘し、“嘱託職員”として、職員とともに木工業界の商品開発支援やデザイン指導を行ってきた。秋岡芳夫氏がデザイン指導を行ったのは1977年からで、それ以前の1971年(昭和46年4月)から1977年(昭和52年3月)までの6年間は、インテリアデザイナーの川上信二氏にお願いして、家具デザインに関する指導を受けていた。

1973年(昭和48年)7月の展示会講評の中で、川上氏は「旭川家具の特色」を次のような特徴があると述べていた。ひとつ目は「材料の豊富な事を利用」。ふたつ目は「クラフトマンシップによる暖かみのあるデザインと仕上げ」。3つ目は「生活の多様化に対応する、新しい使い良い家具開発」。4つ目は「資材、生産コストの合理化による低価格の優位性」。

しかし、4つ目については、「すでに高級家具を指向しているため、低価格の優位性は失っており、産地の印象としては後退している」と述べている。このことを受け、工芸指導所では高級化に必要な「品質とデザイン」の向上に向けて試験分析、新技術開発、製品開発を業界と共に進めることになった。

旭川工芸指導所では、毎年2月と7月に、地元で開催される家具展(後に年3回となる)に継続して参考出品をしてきた。川上さんに指摘してもらった「未利用木材の活用」と「技術開発事例」、「生活提案」などのテーマに沿った製品を参考出品して、地元企業や全国の販売店に見てもらった。また、参考出品の中で企業から商品化の要望があったものについては、規定の条件で契約し、デザイン譲渡を行うことにしていた。

1979 年(昭和 54 年)11 月に第 1 回東京国際家具見本市が開催される。22 カ国が参加する東洋最大の家具見本市に、旭川から 7 社が出品し、 内外から注目を浴びていた。
1975 年(昭和 50 年)旭川家具建具新作展出品作品「未利用材による家具開発」。手前の「ユニット棚とダイニングセット」は、当所の田中重允の デザイン。奥の「ダイニング用スタッキングイスと拡張テーブル」は、川上信二のデザイン。壁のナラ、カバ、セン、ニレなどの「薬品着色見本」は、当所塗 装担当の開発サンプル。
1977 年(昭和 52 年)旭川家具木工祭出品作品「未利用材活用とミニフィンガー接合の利用」。手前の「ダイニング椅子、テーブル」、奥の「踏台椅 子」、「ユニット棚」は、当所担当の山田・田中デザイン。椅子に使用したミニフィンガー接合は、工芸指導所の渡辺昇、関谷武が開発し、1983 年(昭和 58 年)に(社)日本木材加工技術協会から木材加工技術賞を受賞している。
previous arrow
next arrow
 
1979 年(昭和 54 年)11 月に第 1 回東京国際家具見本市が開催される。22 カ国が参加する東洋最大の家具見本市に、旭川から 7 社が出品し、 内外から注目を浴びていた。
1975 年(昭和 50 年)旭川家具建具新作展出品作品「未利用材による家具開発」。手前の「ユニット棚とダイニングセット」は、当所の田中重允の デザイン。奥の「ダイニング用スタッキングイスと拡張テーブル」は、川上信二のデザイン。壁のナラ、カバ、セン、ニレなどの「薬品着色見本」は、当所塗 装担当の開発サンプル。
1977 年(昭和 52 年)旭川家具木工祭出品作品「未利用材活用とミニフィンガー接合の利用」。手前の「ダイニング椅子、テーブル」、奥の「踏台椅 子」、「ユニット棚」は、当所担当の山田・田中デザイン。椅子に使用したミニフィンガー接合は、工芸指導所の渡辺昇、関谷武が開発し、1983 年(昭和 58 年)に(社)日本木材加工技術協会から木材加工技術賞を受賞している。
previous arrow
next arrow

川上信二氏の後任として秋岡芳夫が旭川のデザイン指導役に就任

川上信二氏の後任として選ばれたデザイナーが秋岡芳夫氏だった。秋岡氏にはデザインシンポジウムが開催された翌年の1977年(昭和52年4月)から10年間、旭川に定期的に来ていただき、家具デザインとクラフトの指導を受けることとなった。この当時、旭川工芸指導所が開発のテーマとしていた、「未利用木材の活用や技術開発事例」を含めた生活提案に加えて、秋岡氏が提唱していた「日本人の家具」という大きなテーマにもあわせて取り組んでいくことになった。

1977年(昭和52年)7月旭川家具木工祭で現地指導を実施。
1977年(昭和52年)7月旭川家具木工祭で現地指導を実施。各出品企業の展示品を前にして、担当者から商品意図の説明を聞き、秋岡氏の考えを示すなど、対話形式で行われた。

秋岡氏を招いて1978年(昭和53年)に開催された講習会では、1977年に仙台で行われた「木のモノ展〜モノモノから暮らしの提案〜」について説明がなされた。そこに展示してあった旭川の家具や東北の工芸品、クラフトの日用品について「暮らしをもう一度見直そう」と持論を加えながら、以下のような話をされていた。

「家具の生産においては、機械的工業的生産だけでなく、仕上げからデザインに至るあらゆる面で、再度考えなければなりません」「生産者から考えた場合、テーブルの寸法は、合板から考えた600mm、1200mm、1500mmの長さ、800mmの幅といった寸法になっているが、これは生産者、デザイナーが考えた寸法なんです」「何から考えたかというと、6畳用のカーペット2380mm幅の寸法が売れており、壁とのすき間をユーザーは考えているのです(←著者要補足)」。

また受講者にはグループモノ・モノが作成した小冊子『くらしの絵本』が配られ、冊子の内容について説明が続いた。

「日本人は靴を履かないで生活しているので、その分、椅子を低くすべきです」「このごろは高さ680mmのテーブルを作るメーカーが見られますが、日本人に合ったテーブルの高さは630mmです」。

「日本人の椅子は何かと考えるのもデザイン」「それをどの方法で生産するかもデザイン」「それをどんな方法で売るかというデザイン」「こうしてお使いくださいという生活提案のデザイン」「暮らしのデザイン」「これらを全部しないとダメで、これらの関係をデザインする必要があります」とも話されていた。

1977年に発行された「くらしの絵本・日本人のイス:テーブル」秋岡芳夫・監修
1977年に発行された『くらしの絵本・日本人のイス:テーブル』秋岡芳夫・監修

秋岡氏の呼びかけで「関係寸法」について実践することに

旭川市工芸指導所では、家具などを設計する場合は、千葉工業大学教授の小原二郎さんの著書「建築・室内・人間工学」で関係寸法を確認することが身についていた。そのため、秋岡氏が提言している椅子の座面高さや、テーブルの天板高さについては十分理解できた。実際、その寸法で家具を設計・試作し、生活提案を行っていたが、「これらを全部実践しないとダメです」と秋岡氏にいわれ、売場を持たない私たちが、秋岡氏の提案をどこまで展開できるのか不安に感じていたところも正直あった。

旭川市工芸指導所は、企業の販売会場の一角に「研究機関の参考出品」という看板を掛け、永年にわたり地元企業や家具関係のバイヤーに生活提案を行ない、一定の評価を得てきた。しかし、売り物ではないものを展示することの申し訳なさや厳しさを強く感じていた。特にユーザーから「これはおいくらですか、どこで売っていますか」と聞かれ、答えられないことがつらかった。それでも秋岡氏の提案を形にしていくことを、デザイン担当と話し合い、旭川工芸指導所で進めてきた従来の研究成果とあわせて「日本人の家具」の開発を進めることとなった。

1978年(昭和 53年)旭川家具木工祭出品作品「間仕切り棚とダイニングセット」(仮展示)。
1978年(昭和 53年)旭川家具木工祭出品作品「間仕切り棚とダイニングセット」(仮展示)。手前の「ダイニングセット」、奥の「間仕切り棚」は、当所の山田、田中のデザイン。

上の写真は秋岡氏の提言を受け、旭川市工芸指導所でデザインした「ダイニングセット」である。テーブルの幅は750mm、高さは660mmの寸法にした。椅子は、座高380mm、肘高630mmとし、肘を短くしてテーブルの下に入る寸法とした。椅子の幅は600mmなので、テーブルの使用長さは1400mm、棚の中に入っている分を加えると、1800mm×750mmの天板寸法となる。

このダイニングセットを6畳間の1.5間幅で使った場合、椅子の後ろを人間が通過できるようにテーブルの幅を狭くする必要があったが、幅が700mmでは狭すぎるので、少しでも広くするべく750mmを採用した。「間仕切り棚」は、ノックダウン構造で、側板を付けた幅が800mmで3本並べると2300mmと1.5間に楽に収まる。両面使用なので棚2枚を使って棚の後ろと行き来できるように考慮した。

この後、1978年には「未利用材活用のリビングセット」(田中〇〇デザイン)、「異素材活用のダイニングセット」(及川俊樹デザイン)、「曲木技術利用のダイニングセット」(田中〇〇デザイン)を発表。1979年には輸出用リビングダイニング家具の関係寸法を検討した「住空間の有効利用家具の開発」(山田克己デザイン)、「カラマツ材利用のダイニングセットと棚」(田中・及川の共同デザイン)を発表するなど、他の業務を進めながら、2年ほど時間をかけて「畳のような椅子シリーズ」の全体像をイメージする作業を行った。

本プロジェクトでは、3名のデザイン担当者が各々の案を1/5の縮尺図で表現し、強度設計、関係寸法、秋岡氏の意見、考え方を見える形でまとめていった。全体の展示企画イメージができた時点で、「畳のような椅子シリーズ」から部分試作・展示を行なうこととした。「秋岡氏の発想の原点にあった“日本人の畳から生まれた家具”という視点を貫いて、シンプルにまとめよう」「それは、ジャパネスク(和洋折衷)なのか、和の文化の見直しなのか」。そのような検討も含め、具体的なデザインを秋岡氏に提案しながら関係者の評価を求めて行くこととした。

1980年(昭和55年)2月、秋岡氏との打ち合わせに使われた「畳椅子(連結椅子)」。
1980年(昭和55年)2月、秋岡氏との打ち合わせに使われた「畳椅子(連結椅子)」。この椅子の試作については、当所の田中〇〇が実施設計を担当したが、豊口克平デザインの「トヨさんの椅子」をリ・デザインした、秋岡氏のイメージを優先させた形状としてまとめられたものと思っている。
及川のデザイン案
田中のデザイン案
山田のデザイン案
「畳のような椅子」取りまとめ案
1980 年(昭和 55 年)7 月の旭川家具木工祭に「畳のような椅子」が発表されました。
previous arrow
next arrow
 
及川のデザイン案
田中のデザイン案
山田のデザイン案
「畳のような椅子」取りまとめ案
1980 年(昭和 55 年)7 月の旭川家具木工祭に「畳のような椅子」が発表されました。
previous arrow
next arrow
※上記の設計図は、椅子を検討した一部。 3人の担当が提案し合い、座面がひし形と台形でつなげる事とした。

なお、この製品は、旭川市工芸指導所の提案として発表されており、この後、秋岡氏が自作した笠木を取り付け、ディテールの修正を行いながら、「昼寝のできる女の椅子」(現・親子の椅子)として、1981年に商品化されている。蛇足ではあるが、3台並んだうち、中央の椅子は女の椅子か子供の椅子なのかは不明のままであった。
「700mm幅のテーブルは、東京では仕方なくとも、がまんして使うのは嫌だ」との意見が多かった。テーブル幅は、800mmが適当で、一人当たり幅600mm×奥行400mmが最低スペースとなった」

1982 年(昭和 57 年)2 月旭川家具建具新作展に出品。
開発企画書の一部分。狭さに対応した生活空間への提案「カプセルリビング」を発表。当初の及川俊樹デザイン。
previous arrow
next arrow
 
1982 年(昭和 57 年)2 月旭川家具建具新作展に出品。
開発企画書の一部分。狭さに対応した生活空間への提案「カプセルリビング」を発表。当初の及川俊樹デザイン。
previous arrow
next arrow

「畳のような椅子」に続き、「あぐらのかける椅子」の開発に着手

日本の住宅スペースが狭い理由は、部屋の構成が6畳間をベースに分割されていることが多いからだ。例えば、6畳間のリビングルームに応接セット、サイドボード、TV、ステレオ、等々、家財道具でいっぱいになり、「人間がくつろぐ」という本来の機能が達成されない。いわゆる主(人)客(物)転倒と言ってよいだろう。こういった「狭さ」に対応するため、空間を立体的(縦方向)に構成することをデザインコンセプトとして、生活提案を試みている。企画書には仕様、ユニットの関係寸法や背景情報を示して説明している。
平面の関係寸法に対して、垂直の関係寸法を加え、問題解決の提案を行い確認している。

次の段階に入る為に必要な「あぐらのかける椅子」の開発には、前年に開発した「畳のような椅子」を参考に、ゆったりとした表情のある「おやじの椅子」をイメージして設計した。

座高を380mmにしたいと思っていたが、秋岡氏から360mmにという要望があったので、その寸法で設計したものが採用となり、そのままで商品化となってしまった。足のせ椅子の要望もあって、軽いパーソナルチェアーとしての可能性を感じている。笠木の形状については、秋岡氏から「竹トンボの羽ねのような形にしてほしい。成形合板で作れないだろうか」と要望があったが、フィンガージョイントで同等の強度が得られることを説明し、了解を得て、完成したものである。

1/5 の図面
原寸図(青焼きしたモノに手を加えて検討している)
1983 年(昭和 58 年)7 月 旭川家具木工祭出品 当所の山田デザイン。秋岡さんから話が合った、「あぐらのかける椅子」「畳のような箱椅子」 「高さが変わるテーブル」を組み合わせて「畳のような椅子シリーズ」パートIIの提案を行った。
previous arrow
next arrow
 
1/5 の図面
原寸図(青焼きしたモノに手を加えて検討している)
1983 年(昭和 58 年)7 月 旭川家具木工祭出品 当所の山田デザイン。秋岡さんから話が合った、「あぐらのかける椅子」「畳のような箱椅子」 「高さが変わるテーブル」を組み合わせて「畳のような椅子シリーズ」パートIIの提案を行った。
previous arrow
next arrow

「畳のような箱椅子」は、2種類のサイズ違いでレイアウトに対応している。本来は熊本のモダンな畳表を使用する予定であったが、産地の事情により購入できず、ループカーペットを使用した。箱椅子については、今後、熊本で畳を張って完成させることとなった。

「あぐらのかける椅子」は、事前に秋岡氏に原寸モデルを送り、デザインを検討してもらっていたが、この展示の後にご自分で背もたれ(笠木)の部分を削り、モノ・モノで商品化したい旨の返事をいただいた。削りやすい、やわらかな材料をご用意し、秋岡氏にお預けし、削られたものを見た目にわからないようなアール調整の削り直しを行って、完成した。一方、「高さが変わるテーブル」については、工芸指導所で以前に提案していたテーブルを使って「一机多用」を説明するとのことであった。

この開発結果については、1983年10月に開催された「第1回・北国の創作家具展」で同様な内容で展示されている。7月木工祭の展示で、来場者から強い関心が寄せられたため、家具業界誌が、旭川特集を組んでPRしてくれている。「家具開発のステップ・・・室内と家具の関係の中で、新しい生活提案を試みる」として、「たたみのような椅子シリーズ・箱床(ハコユカ)ユニット」が紹介されている。

夏はこあがり風、冬はこたつ風に。
リビングコーナーとして」「ベンチとして」
用途を広げてベッドとしても
previous arrow
next arrow
 
夏はこあがり風、冬はこたつ風に。
リビングコーナーとして」「ベンチとして」
用途を広げてベッドとしても
previous arrow
next arrow

「今後商品化に当たっては、経営戦略、生産・流通、総合評価の各段階でのステップをふんで、ホンモノの商品となるよう検討中であり、中央在住の秋岡芳夫先生及びグループモノ・モノを通じて11月から全国各地でキャンペーンが実施される」と表示されており、1983年の11月に販売されることとなった。

秋岡氏監修の「たたみのような椅子シリーズ」が商品化されて一安心したのもつかの間、1984年(昭和59年)の開発に向けて、秋岡氏から提案があった「日本人の暮らしのデザイン」の検討が本格スタートした。

ダミー〇〇〇〇〇〇

「座の生活と椅子の生活」について、くり返し提案展示を行い、その間に「学校用家具のあり方」や「オフィス用木製家具の提案」なども行いながら、「暮らしのデザイン」を下記の提案で一応の区切りとした。

「モノを増やさず、兼用できるモノを使って狭さを克服してきた、日本人の生活」について伝統的な生活様式を現代的な視点に立った「和のイメージと今日の生活」を提案した。

「くつろぎ」と「よろこびを」一つのテーブルで演出する知恵「一机多様」を表した。絵・及川
「くつろぎ」と「よろこびを」一つのテーブルで演出する知恵「一机多様」を表した。絵・及川
1987年(昭和62年)7月 旭川家具木工祭に出品展示 山田デザイン
previous arrow
next arrow
 
「くつろぎ」と「よろこびを」一つのテーブルで演出する知恵「一机多様」を表した。絵・及川
「くつろぎ」と「よろこびを」一つのテーブルで演出する知恵「一机多様」を表した。絵・及川
1987年(昭和62年)7月 旭川家具木工祭に出品展示 山田デザイン
previous arrow
next arrow

著者の紹介

山田克己さん

山田克己(やまだ・かつみ)

旭川市工芸センター・元所長/アート&クラフト作家

1961年静岡県生まれ。武蔵野美術大学工芸工業デザイン科木工コース卒業。漆芸家の工房を経てインテリアデザイン事務所に勤務。1996年「笠原嘉人アトリエ」設立。食器・家具・インテリア・建築・環境デザインまでを手掛ける。主なプロジェクトに埼玉県・西川材(杉・ヒノキ)の有効利用のための製品開発デザイン、「君の椅子」2013年度デザイン。東京テクニカルカレッジインテリア科非常勤講師。

関連する記事
RELATED ARTICLES

記事の一覧へ