「木の家具展」のメンバーはこうして集まった
さて木考会には、木工に関心があれば、プロ・アマ問わず誰でも参加できましたから、「80年31人木の仕事展」でも自分が作った木工品を出品できれば修業中の人やアマチュアの人も参加できました。
その2年後の1982年7月に銀座十字屋ギャラリーで開催された木の仕事展は、80年の木の仕事展の出品者の中で、生業として木工房を独立自営している10人(血脇正裕、須田賢司、岸本邦男、甘糟憲正、渡辺明、丸谷芳正、丸谷文恵、小谷豊、野崎健一、谷進一郎/敬称略)が参加したので、いよいよ現在の「木の家具展」の元になる木工家のグループ展が始まりました。
そして、1983年11月にも同じ銀座十字屋ギャラリーで展示会が開催されましたが、メンバーの多くが家具の注文制作に力を入れたので(この時のDMには「注文による木工・家具づくりを目指しています。」と記載されています。)、方向性の違いから、須田さん、甘糟さん、渡辺さんの3人が参加を辞退して、新たに川口清樹、中越茂、高野勝文、岩泉純木家具(代表・工藤宏太)、鷹箸俊範(敬称略)の5人が参加して、12人で開催されました。
銀座十字屋ギャラリーはビルの4階にあるとはいえ、銀座通りに面しており、好立地でした(ただし、エレベーターに乗らない大きなテーブルや飾り棚の搬入出は大変でした)。続いて翌年1984年にも同様なメンバーで「木の仕事展」を開催しようと計画したところ、会場の銀座十字屋ギャラリーが改装中のため使えませんでした。10人前後で木工家具展を開催するには40坪位の広さの会場が必要ですが、銀座で他に探しても40坪以上の広さのあるギャラリーはかなり外れた場所になってしまいました。
するとメンバーの誰かから「八重洲に40坪あるギャラリーがある」と情報があって、皆で検討しました。最初の木の仕事展から、多くの展覧会を銀座で開催してきたので、八重洲でどうなのか、と不安視する声もありましたが、「田中八重洲画廊」での開催を決めました。この田中八重洲画廊を会場として使えたことも、後述する様にその後34年間も毎年続いた要因でもあると思います。
ということで、「84年木の仕事展」が10月に八重洲で開催されましたが、その終了後の話し合いで、来年も続けて開催したい、と考えるメンバーとそうでもないメンバーに分かれてしまいました。続けてグループ展を開催したいメンバー(川口、野崎、工藤、谷)に血脇正裕さんと井崎正治さんが加わって、翌85年から「木の家具展」として新たなスタートを切ることになりました。
この時、メンバーの一人、岩手の岩泉純木家具の工藤宏太さんは、木工家具制作だけでなく、元々製材所もやっていたので林業や森の現状に危機感を持っていました。工藤さんから、岩手産の樹齢300年の朽ちた空洞のある赤松の大木を入手したが、それをメンバーで分けて、それぞれが制作して、「木の家具展」に持ち寄ってはどうか、と提案がありました。木に関心はあっても、林業や森に関わりの薄かった他のメンバーも賛同して、会期の半年ほど前に岩手に参集して、大木を分割する作業に立ち会いました。
この顛末はマスコミや専門誌でも紹介されるなど反響がありましたが、翌年は同じ岩手の林業家の協力で広葉樹小径木での木工品や家具作りにも挑戦しました。こうして「木の家具展」は6人のメンバー(川口、野崎、工藤、血脇、井崎、谷)で毎年11月上旬の同じ時期に同じ田中八重洲画廊で開催するのが、恒例となっていきました。
田中八重洲画廊は名前の通り、絵画のギャラリーですが、家具の展示にもぴったりでした。約40坪という広さは、通路や共有スペースを除いて5等分にすると一人当たりは4坪から5坪の広さになります。これ位ならば、それぞれが持つバンやトラックで1台分の物量を展示するのにちょうどよい広さでした。これ以上の量になると、運ぶのも大変です。
さらにそれ以前に個人の工房ですので、大量にはできなくて、1点の家具を制作するのに時間がかかるので、毎年展覧会をするということは、つまり1年の間に、注文のあった仕事を作って納め、新たな家具を作って持ってくる、というサイクルで進めるのですが、それにはちょうどよい物量にあった広さだったかもしれません。
搬入については、画廊が一階にあって大型家具でも前の通りに駐車して、階段やエレベーターを使うこともなく比較的簡単にできることも家具展の会場として適していました。搬出時の車への積み込みになると屋根のない道路で行いますので、雨が降ると濡れてしまいましたが、季節的に11月上旬は雨が少なくて、濡れて困ったということはそれほどありませんでした。
会期中は時には風の強い日もありましたが、暑くもなく寒くもなくエアコンなしで扉を開放しておけることは、通りがかりでも入りやすい好結果になったと思います。30年前は会期中の寒い日はコートを着ていましたから、温暖化が進行して暖かくなりました。外の通りからはガラス張りで椅子やテーブルが並んでいる様子が見えるので、歩いていて脚を止める方もいますが、見ず知らずの方にはガラス1枚でも開けて入ってくるのも一寸勇気のいることです。最近は1日何組も外国人客が立ち寄る様になっていました。
「木の家具展」が35年以上も続いた理由
「木の家具展」は88年からは初期メンバーの血脇さんが出品を辞退して、5人になりましたが、恒例になる中で、いくつかルールが決まっていきました。
会場の展示スペースをほぼ公平に5分割して、その場所を順にローテーションして、展覧会の準備の役割(会場の看板、会場で配るパンフの製作、DMの製作、マスコミへの広報、会計)も公平にローテーションしながら分担すること。
出品内容では、それぞれの独自の出品の他に、毎年、テーマを決めて、テーマに合わせてそれぞれが制作したモノも展示すること、などでした。これらは、それまでの「木の仕事展」を開催した結果の反省点も反映されていたと思います。
グループ展で10人ものメンバーが集まると、会場内の場所を取り合う雰囲気があったり、準備の役割が偏ってしまうこともありましたので、不公平や不満にならない様なルールにしたわけです。こうして苦手なことも公平に順番に担当していくのですが、お互いのやることには口を出さないことも、長続きさせる秘訣かもしれません。
また、展示にはメンバーの最近作を出品しますが、それをただ並べるだけでなく、「赤松の切り分け」とか、「広葉樹小径木の活用」といったテーマがあると、一人ではなかなか実現するのが難しいことに挑戦できて、それぞれの仕事の幅も広げる良いチャンスになったと思います。
広報としても、木工家のグループ展を最初期は物珍しさで取材したり記事にしてくれたマスコミでも、毎年くり返していくと印象が薄くなるので、訴求力を高めるためにも「今年のテーマ」を考えることになりました。毎年見に来られるお客様にも新しいものを見てもらえることになりました。
最初の頃のテーマは用途的なものでしたが、その後異素材などに移り変わり、後半はキャッチフレーズのような漠然とした文言になっていきました。 実際の文からキーワードだけ抜粋していますが、以下の様になりました。
87「テーブル」88「それぞれ」89「額」90「器」91「座」92「箱」93「盆」94「ひきだし」95「異素材」96「椅子」97「飾る」98「仏壇」99「花」2000「男女」01「中年」02「古材」03「竹」04「自分のため」05「元気」06「25年目」07「次世代」08「形」09「居場所」10「心地良さ」11「30年」12「変わる」13「受け継ぐ」14「手触り」15「やすらぐ」16「使い続けて」17「木への思い」18「ここから」
メンバーそれぞれが力を付けてくると、徐々に他のギャラリーやデパートなどでの個展やグループ展をやることもありましたが、毎年続ける「木の家具展」への参加が途絶えることはありませんでした。
会場の田中八重洲画廊は貸し画廊で、自主企画ですから、事前の広報や搬入出、会期中の営業からお金の管理まで、全てメンバー全員が協力しながら自分たちで運営しないとできません。ということは会期中も基本的に毎日始まりから終わりまでメンバー全員が在廊しているわけで、それぞれが一週間会場に通える宿舎を用意したりして負担も少なくありませんでしたが、全員が在廊していてそれぞれと話ができることも来場されるお客様や関係者にとってこの展覧会の魅力のひとつになったかもしれません。
もちろん、それぞれが日頃精進して木工家として自分のスタイルを確立し、完成度の高い木工家具を出品して、見応えのある展覧会になっていったことが、「木の家具展」の最大の魅力であろうと思います(自画自賛で申し訳ない!)。
これだけ見応えのある展覧会を一人で、つまり個展としてやるには5年位の準備期間が必要でしょうし、そうなるとその間の生活や経費や仕事をどうしようか、となってしまいます。そういう点でも、「木の家具展」の様なグループ展形式であれば、毎年開催することができたのか、と思います。