「モノとモノとの関係のデザインを、夜の脱グループプロジェクトで」

グループモノ・モノの設立経緯や活動内容について、1972年に秋岡芳夫がデザイン誌『工芸ニュース』に寄稿した原稿のアーカイブ。「モノとモノとの関係を、脱グループのモノたちのエゴイズムなしの発想やデザインや製作でやろう!」という提案のもと、プロジェクトチームの結成が声高々に宣言されています。

文: 秋岡芳夫(工業デザイナー)

モノ・モノサロンの様子
モノ・モノサロンの熱気を伝える貴重な写真。左手奥には木工の人間国宝、須田賢司氏の姿も見える。

あきらめ暮し

都会の家々のたてこんだ露地を、「ご家庭でご不要になりました古雑誌古新聞がございましたら」と拡声機を積んだうるさいチリ紙交換の車が走りまわる。「毎度おさわがせしております」と敬語を使って断りながら走っているところを見ると、彼らもスピーカーの騒音が近所迷惑であることは承知しているらしい。

都心の高層ビルのオフィスに勤めているOLが、はるか下の方を通りかかる石焼いも屋を窓ごしに見張っていて、来たなと見るや10数階をエレベーターで駆け下り、「おじさん、もっと大きい声でどなって歩いてよ。そしてさ、もっとゆっくり歩いてよ」と頼んだという笑い話があるが、マンションの上の階の住人でチリ紙交換の車を心待ちしている主婦にしてみれば、石焼いも買いのOLのように、チリ紙交換の車にはゆっくり走ってうんとスピーカーでどなってもらいたいところだろうが、同じマンションの住人でも道路ぞいの1階の住人は4階や6階ずまいの人間とは逆に、スピーカーの音は小さくしてなるべく早く走ってほしいと思うにきまっている。

コンクリートの壁にかこまれて暮らすマンション族は、もし、チリ紙交換なんかに用はないと思えばアルミサッシの窓をビシャリとしめる。そうすればちっともうるさくない。が、道路ぞいの昔ながらの木造の平屋に住む人間はどうにも打つ手がない。赤ん坊を寝かせているときだろうとテレビのメロドラマを見ているときだろうとチリ紙交換の騒音はガンガンと部屋の中にとびこんでくる。大いに迷惑である。

迷惑なら近所の者同志みんなで相談してチリ紙交換屋とかけあったらよさそうなものだが、そこはそれ、今の都会という所はお互いに隣同志が知らぬことを建前に暮らすところだからいざというときの話し合いがどうもうまくいかぬ。どうせ話があうはずないと、やって見ない前から決めてかかるのが都会人の分別らしく、はなっから話し合うことをあきらめているらしい。

チリ紙交換の騒音で一番利害が食い違うのは、マンションの高い所に住んでる人間と、道路っ端の木造平屋にすんでいる人間だが、昔からこの土地に木造の家をたてて住んでいた先住民?のグループは、あとから住みついた天孫降臨族的マンション族にたいして敵意に似た対立感情をもっていて、これまた話し合うことを考えようともしない。

だれも文句をいわぬからチリ紙交換屋はますますスピーカーのボリュームをあげて街中を走りまわる。みんな騒音で困っているくせに、だれも文句をいわぬ。みんなだまって、ただあきらめて暮す。都会の暮し方はほんとにおかしな暮し方だ。

自分さえ我慢してればいいんだと考えてるならそれは一種のエゴイズムだ。はなはだ悪い考え方である。一人で文句をいうのがいやなら、みんなで文句をいったらいいじゃないか。

ただがまんして暮すのは悪い暮しだ。一事が万事という。露地の奥まで危険な車が走っても、カルキ臭い水をのまされても、上げ底の土産物を買わされても、だれ一人文句もいわず対策も考えず、ただひたすらにあきらめて暮す。近頃の都会の暮しはあきらめの日々ではある。

あきらめ買い、あきらめ使い。

あきらめ暮しの日々が毎日つづくと、買物はあきらめ買いになり、物の使い方はあきらめ使いになるようだ。

みんながまだいくらか世の中に希望や期待を持って暮らしていた数年前だったら、カメラ好きの面々があつまれば「N社のボディは実にいいがレンズはどうも今一つ気に入らぬ」「K社の方はレンズがすごくいい」などと、各社の製品に注文をつけたりほれこんだりしながら、「N社のボディにK社のレンズがつけられたらスゴイんだがなあ」と次にメーカーから発売される新製品を首を長くして待ったりなどしていたのに、近頃はカメラ通が集っても不平や文句ばかりしかいわない。「システムカメラとか何んとかメーカーは宣伝するけれど、あれは自社製品だけを売りつけるためのニセシステムだよ……」、「K社、M社、A社、N社の一眼レフがみんなレンズマウント径と絞り連動方式を共通にしてくれたら……」、「それがほんとのシステムカメラなのに……」、「そんなこと今のメーカーさんやるわけないじゃない」と、出てくる話はメーカーの悪口やぼやきばかり。

一般のカメラ購入者も、カメラをただ面倒なしに写ればいい、安い方が得、どんどん新型が出るからそのときまた買換えりゃいいさといった程度の気軽な商品と、はなっから決めているらしく、一昔前、自分のほれこんだカメラを買う金がなくて毎日それを飾ってあるショーウィンドウの前に立ってながめた奴がいたことなどを考えると、随分カメラのユーザーも変ったものである。
カメラの愛好者がいなくなって、カメラの消費者ばかりが増えたのにはチャンと理由がある。メーカーがそう目論んでそうしたのだ。

カメラメーカーはここ十数年の間に開発したカメラの新技術や考案を自社だけの生産性の向上、他社との市場での競争のために浪費して、カメラ好きが期待しているようには利用しなかった。他社のものとレンズを自由に交換できる方式すら採用しなかった。ーユーザーはそれを一番のぞんでいたというのに……。

こうしたメーカーの生産者主権的、愛用者無視的なカメラづくりが、かつてのカメラ愛好者を失望させ、衝動買いの消費者ばかりをつくってしまったのだ。買う人間を買わされる人間に変えてしまったのだ。 買わされる人間は衝動で買うかあきらめて物を買う。あきらめて買ったものはあきらめて使う。用がすんだらそれをポイと捨ててかえり見ない。

モノをすてないくらしのすすめ展
モノをすてないくらしのすすめ展ーモノ・モノ提案  1970.11.7-13

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