「提案ー関係のデザインを、会議デザインシステムで」

モノ・モノの前身となった「104会議室」について、秋岡芳夫が1971年にデザイン誌『工芸ニュース』に寄稿した原稿のアーカイブ。「デザイナーの提案活動の無駄を省くためにも、デザイナーの主催する会議室を持とう」という提案のもと、生産的な会議のあり方が詳細に検討されています。

文: 秋岡芳夫(工業デザイナー)

≪会議室はまずサロンから始まった≫

サロンの会話ー1.拒否のデザイン

「だから君のいいたいことは、プラスチックのメーカーの所属デザイナーがいま仮りに、使い捨てのプラ容器を量産するのはよくないことだと思ったとしても、私は使い捨てのプラ容器のデザインはいやですとはいえないはずだ、といってるんだろう。」
「僕は自動車は造り過ぎたと思うけれど、自動車メーカーの所属デザイナーもやはり同じじゃないか。解っていてもどうしようもない。」
「日本のいまの私企業がさ、効率競争にかつためにさ、ものすごくガッチリした、人と機械の生産システムを組み上げちゃってるんだよ、ね。その中にさ、デザイナーも組み込まれちゃってるんだよ。あきらめるんだな。」
「企業の経営者が人間尊重の経営理念に目ざめて、脱企業、脱利潤を計画しない限り駄目か。」
「僕はお勤めデザイナーの経験がないから解らないけれど、私はこの仕事はデザイナーの名において拒否しますなんてことはやっちゃいけないの?就業規則かなんかで禁止されてるの?」
「さあね。」
「拒否するデザインてのカッコいいじゃない。でもエンプロイドデザイナーはできないんだろうな。」
「じゃあフリーのデザイナーならできるか。」
「そりゃ簡単だよ。仕事断わりゃいいんだ。契約しなきゃいいんだ。」
「でもデザイナーは拒否するだけじゃ駄目なんじゃないかな。評論家ならね。マヨネーズのプラ容器けしからん、抹殺すべきであるといえばそれで済むかもしれないけれど、デザイナーは実務家なんだから、使い捨てのマヨネーズのポリ容器を拒否したらその替りのマヨネーズの無害容器を、いまどきにいえば環境汚染の原因にならない代案で示さなきゃならないんじゃないか。そうしたとき、フリーは拒否するところまでは楽な自由な立場にいると思うけれど、代案を提案したりそれを実際に提案する段になると、フリーの立場は非常に弱いんじゃないか。フリーは生産の組織の中にガッチリ入りこんでいないんだから……」

「勤務デザイナーは拒否できず、フリーのデザイナーは消極的な拒否はできても代案を実施するに役不足というわけか」
「自動車のメーカーだってそのへんのことは解ってるんだよ。自動車をこれ以上造ったら都市交通の混乱をまねくってなことぐらいよく解ってるんだよ。でもね。自動車屋には自動車同志の生存競争みたいのがあってさ、もっともっと生産の効率を上げてさ、相手をやっつけにゃならんシカケになってるんだよ。」
「自動車を造るのは市民のためにではなく、自動車会社のためにつくっているのだ!」
「まあそんなところだ。」
「それを自動車メーカーのグループエゴイズムと僕はいう。」
「エゴイズムは他への思いやりを欠く。」
「プラスチックスメーカーのグループエゴイズムは廃棄物公害をひき起こし、自動車メーカーのグループエゴイズムは都市交通の混乱と大気汚染を……」
「拒否のデザインもいいけれど、MAN-NATURE-DESIGN-SYSTEM式のソフトなデザインシステムを、合意と参加のデザインシステムを、生産優先主義を生活優先に切りかえる目標をかかげて、消極的に拒否するばかりじゃない、何か前向きの方法を具体的にこの会議室で、教えられないだろうか。」
「それもいいけど拒否のデザインもどんどんやりましょう。」

市民社会の代弁者であったはずのDesignerも、一たん企業内に雇用されてしまうと、企業のエゴイズムの中に埋没してしまって、その本来の働きが弱まる傾向がある。
市民社会の代弁者であったはずのDesignerも、一たん企業内に雇用されてしまうと、企業のエゴイズムの中に埋没してしまって、その本来の働きが弱まる傾向がある。
全員参加、合意のデザインをめざす会議方式のデザイン活動は、企業と企業を横につなぐコーディネーションワークも行なうことができる。
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