木考会と私-木工藝家・須田賢司 

1970年代、手作業を主とした家具作りを志向する若者たちが日本各地で現れました。従来の枠組みにとらわれず、個々に活動している作り手が中心でしたが、「前近代的とされた木工という仕事に、人間らしい生き方、働き方の可能性を感じる」という点でひとつにつながっていました。
1980年代に入ると、そんな若者たちが月に一度、モノ・モノを会場として集っては語り合い、情報交換し、ときにはグループ展を開催するようになりました。会の名称は木工を考える会(略称・木考会)。幹事役は「でく工房」の竹野広行さん。木考会という名称は同じ工房の光野有次さんが命名しました。メンバーには須田賢司さん(現・人間国宝)、渡辺晃男さん、甘糟憲正さん、稲本正さん(現・オークヴィレッジ会長)、井崎正治さん、谷進一郎さん、村上富朗さん、吉野崇裕さん。美術系の大学で木工やデザインを指導する立場になった荒井利春さんや丸谷芳正さんなど、のちに木工界をリードする立場になった人も少なくありません。木考会が活発に活動していたのは6年間ほどですが、その間にのべ100人以上の木工関係者が何らかの形で関わっていました。
当時20代だった須田賢司さんが木考会の様子を原稿として克明に書き残されています。ご本人の許可を得て紹介します。

木考会

長屋流儀で集う木工仲間 月に1度、気ままな談義に花が咲く

木工は自己完結型仕事

和洋家具や、指物、木彫り、あるいは身障者、老人用の生活道具など、さまざまな立場で木工にたずさわる仲間が集まって「木考会」を作ってからまる4年になる。「木工を考える会」というのが正式名称で、会といっても、毎月一度集まって、木工の仕事についての悩みを話し合ったり、技術的な情報交換をしたり、木工談義に花を咲かせるだけ。時折、作品の展示会を開いたり、材木屋、鍛冶屋などの見学会や材料、道具の共同購入もするが、そのつど趣旨に賛成の者だけが参加し、言い出しっぺが責任者になる、という気ままなグループである。

父の後を継いで指物師になった私も感じることだが、木工は他人に左右されず、作品完成まで自分一人でできる自己完結型の仕事である。それが魅力で木工を選ぶ人が多いのだが、半面、仕事場に一人でこもり、人に会う機会も少ない内向的な仕事だけに、“木が相手だと気がめいる”こともある。そんなとき、気分を晴らす話し相手がほしくなる。私の場合は身近に父や、父の仕事仲間がいたが、いずれもその道の大先輩ばかりで、気のおけない相談相手というわけにはいかなかった。そんな若い木工仲間が、気楽に話し合える場を、と声を掛け合って集まったのである。

最初の会合は昭和52年5月28日。会場は東京都板橋区徳丸の「でく工房」だった。家電メーカーのデザイナーを辞めて身障者用の生活具などを作っている同工房の光野有次、竹野広行さん、職業訓練校を出て独立したばかりの血脇正裕さん、その同期生の高野勝文さん……初対面の人も含め12人だった。初対面といっても年齢も20歳代から30歳過ぎと似通った木工仲間。酒を飲みながらの、のんびりした集まりの中で、思った以上に話がはずみ、それ以後、毎月第3土曜日に集まるようになった。途中から会場は変えたが、毎回参加者が会場費として一人300円を払い、余れば飲み代に回す。会費などをストックしないのは、いつでもきれいに解散できるようにとの考えからだ。毎月の集まりでの話は、木工の取り組み方など、さまざまだが、お互い何か得るものがある。

新宿などで「展示会」

材木を探すにも、私は父の代から行きつけの銘木屋に偏りがちだったが、仲間は積極的にいろいろな材木屋に飛び込み、「こんな木がある」と教えてくれる。また丸太が欲しいが一人では使い切れないようなときには「だれかこの丸太使わないか」と声を掛け、数人で一本を買う。道具でも特殊なカンナなど1丁では鍛冶屋がうってくれないこともあるが、3、4人で頼むと注文がきく。

”実利的”な情報交換ばかりではない。親睦をかねてお互いの工房を訪問したり、うちそろって材木屋や木工展の見学に出かけたりもする。最近では有志で「朝鮮木工研究会」を作り、李朝の木工の勉強をしている。 木考会の活動で大きなものは、やはり展示会の開催だろう。何度か会合を重ねるうちに「みんなの作っているモノを一カ所に集めて見てもらおう」という声が強まり、昭和53年8月、東京・新宿の伊勢丹で開かれた「くらしの中の自然展」に会員7人とでく工房が出品した。その後、同年12月、東京・銀座の松崎画廊、昨年5月、池袋のパルコで木考会有志主催の「木の仕事展」を開いた。 展示会開催となると、半年、一年前から出品者が集まり、会の目的、展示の段取りなどを何度も話し合い、全員の合意したところで動き出すことになる。開催期間中は、出品者が交代で会場に出、入場者と積極的に話し合い、道具を作る立場、使う立場の交流をはかっている。

脱サラ準備の人も参加

会長も事務局もない子供の集まりのような木考会だが、発足1年後の昭和53年4月から毎月、手書きコピーの機関誌「黙木」を発行している。といっても、「言い出しっぺが責任者」の原則に従い、メンバーの一人、竹野さんが自発的に出しているのだ。原稿集めから機関誌の会員への発送まで一人できりまわし、我々はコピー代と郵送料を出すだけだが、竹野さんは「オレは好きだからやってるんだ」と平然としている。

12人で始まった木考会も、展示会で会の存在を知ってやってくる日曜大工や脱サラ準備のサラリーマン、女性などが加わり、今では述べ100人近くになっている。1、2度顔を出しただけで来なくなる人もいるが、仲間の多くは木工のプロ、あるいは将来木工で独り立ちしたい、と考えている人たちである。いずれも好きだから選んだ木工の道である。家具材といっても樹齢100年から数千年という木ばかりである。「オレのようなちっぽけなヤツがむだに使ってはもったいない」という木に対する畏怖感は皆持っている。木を前にして、自分の力など大したことはない、と毎日思い知らされているのだ。

先生と呼ぶのはゴメン

そんな思いで仕事をしていても「木工では食えない」というのが大方の仲間のかかえている悩みだ。仲間の中には「手取り15万円の月収が目標」という者がおり、30歳を過ぎても独身という人がザラにいるのを見ても明らかだろう。工場の大量生産家具より、手仕事の一品生産の方が材料も半端になり、設計図一枚ひくのにも時間がかかり、値段も高くなる。陶器ブームで高い茶わんを買う人はいても、日常生活用具である木工製品に高い金を出す人はまだ少ないのだ。

だが、自分の生き方として木工を選んだ以上、食えるものにしていかなくてはならない。仲間の中に身障者向けの自助具に取り組んでいる女性がいるが、彼女は保母であり、木工はアルバイト的にやっている。木工の自助具製作が社会的に十分認められていないからだが、それで自立できるのが当たり前にしなければ、と4月から保母をやめて自助具製作に専念するという。そういう決断が必要なのだろう。

隣の家にちょっとしょうゆを借りに行くように道具を融通しあったり、知恵を出し合っている木考会は、いわば”木工長屋”である。ずっと顔を出して”住人”になるのもいいし、たまにブラっと遊びに寄るのもいい。うるさい大家もいない。それなのに外から見ていると木工の一大勢力団体とみえるらしく、中には勘違いして「木考会の会員です」と吹聴している人もいる。新しく顔を出す人の中には古くからいる者が偉くみえるのか、「先生」と呼ぶ人までいる。「オレ」「お前」の付き合いが長屋の流儀である。お互い、先生などと言い出したらおしまいだ。木工仲間の出会いの場であり、広場でもある、という初心に帰ろうと自戒し合っている。

1981年3月3日・日本経済新聞に寄稿

著者の紹介

須田さん

須田賢司(すだ・けんじ)

木工藝家

1954年東京に生まれる。1992年群馬県甘楽町に移転。2014年重要無形文化財「木工芸」保持者に認定。2015年「木工藝―清雅を標に―」上梓。2016年竹中大工道具館「人間国宝須田賢司の木工藝」展開催。現在公益社団法人日本工芸会木竹工部会長
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